Posted By Dr. Feelgood on 2012年5月3日
1990年の夏
私は毎日のように神宮プールへ通っていた
がんじがらめな生活にピリオドを打ちたくて
大学卒後、1年ちょっと勤めた歯科医院を飛び出した
何もする事がなかった・・・
いや、何もする気がしなかったのである
この神宮プール
50mに9コースもある本格的な競泳用プールなのに
不思議な事に泳いでいる人が殆どいないのだ
休日こそプールサイドは座るところもないほどの混雑だが
平日 それも晩夏の午前中となれば
たまに水しぶきの音と電車の音が気がつくと聞こえ
神宮の森の蝉時雨を夢枕にのんびり昼寝できる
オアシスのような場所であった
(今 考えるとバブルの真っ只中でしたね)
みんな泳がないで日光浴 きれいな女性を目の保養に・・・
隣の飛び込み台のある深いプールでは
小谷実可子さんがシンクロの練習に来ていたり
まだ現役時代のラモスさんもよく見かけたなぁ
二丁目あたりの怪しいおねえさんだかおにいさんのような方も多かった
とにかく田舎のプールじゃ考えられないくらい
Hなカッコの人が多かった
だからいつからか“Tバック禁止!”なんて貼り紙もされちゃったw
おねぇさん方に時々誘われたりもして ちょっと面白怖かった!!
仕事を辞め 途方にくれるどころか
終電まで飲んだくれて
起きれば朝からプールでゴロゴロ
ランチタイムからビール飲んで
うわっサイコー!
午後からはパチンコに映画 ねるとんパーティ
毎日が夏休みだったのだが・・・
そんな日々はそう長くは続かない
だんだん貯金も底をつきピンチ!
世田谷なんかに住みついちゃったんで
マンションの家賃もかなりヤバイ!
今みたいに漫喫があるわけでもなく
♪ホテルのロビーも いつまで居られるわけもない
さあそろそろ働くかぁ・・・
そんなわけで 次の日から
日刊アルバイトニュースを毎朝コンビニで購入
いつものようにプールでゴロゴロしながら仕事を探していると
かつての同僚や歯科大時代の友人たちも
“そろそろ歯医者に戻ったらっ”
なんて心配のような冷やかしを浴びせにきてくれた
かなりやばい状態だったのに
それほど切羽詰った気持ちにならなかったのは
若かったからなのか当時のバブル景気の雰囲気だったのか
今でも謎です
もう9月に入りプールサイドにも
鳥肌が立つような秋風が吹きはじめた頃
ようやく重い腰を浮かせてバイトの面接に出向いた
場所は東京ドーム
履歴書に歯科大卒なんて書けるわけがないw
偽の履歴書を持参した
今みたいにフリーター全盛ではないゆえに
大学出てプラプラしていたら
どこか具合でも悪いんですか?
そんな事を聞かれて恥ずかしい思いをする時代だった
日給5000円ポッキリ
でも好きな野球を観ながら1日数時間で5000円じゃいいんじゃないかい
そんな甘い考えで面接官の「明日から来れますか?」の質問に
「はい!喜んでぇ」っとやってしまったからもう後には引けない
仕事の内容は野球の試合中、各通路の前に立ち
ゲートから入ってきたお客様を案内したり
内野指定席の出入りのチケットチェックをするというもの
ところがナイターは6時からはじまるのに集合は2時
渡されたユニフォームに着替えてまず準備体操
雑巾を配られたらライト側からバックネットを通りレフト側まで
指定された一列の椅子を全部ひとつひとつ丁寧に拭いて回るのだ
これは背中と腰がいっぺんでやられた
5つも6つも年下のバイトの常連学生に
拡声器で「キミは列がズレてるぞぉ~」とか怒鳴られながら必死w
それが終わると配置に付かされるのだが
必ず野球場の方に背を向けて接客するように厳しく注意がとぶ
ですが試合が始まっちまえばしっかり見てましたよ巨人軍のプレーを
ただ終わった後がまた大変
ゴミは別の業者が集めるのだが
飲み残しのビールやジュースはこちらが担当
またまた全員バケツを渡され
紙コップに飲み残された液体を回収
バケツが一杯になったら洗面所まで排水に行き
駆け足で戻ってまた回収の繰り返し
これもまたハード
当時、歯科医院にまじめに勤務していれば
私のように卒後1年位の者でも
月給40万円は下らなかったはずだ
同級生の中にはその倍を稼いでいる者もいた
日給は辛い
最初のうちは毎日間近でプロ野球が観れて楽しかったのだが
日に日に“早く終われ~”っとなってくる
延長戦なんかに突入すると もう地獄 ヘトヘトだった
でも そんな私に
あの頃のGIANTSはまだ勇気と力を与えてくれていた気がする
一昨日の巨人VS阪神を東京ドームで観戦した
とてもプロ野球人気が落ちたとは信じられないほどの超満員のスタンド
伝統の一戦に相応しい 沢村とメッセンジャーの素晴らしい投げあい
息をのむような投手戦であった
原監督は7回無死1塁で5番村田に送りバントを命じた
成功したのだが
巨人ファンはそんなものを観に来たんじゃない
そして
9回1死満塁のチャンスでは不振の小笠原に代打を送った
もう席を立って帰りたくなった
球場全体がどよめいたのが聞こえたのか 原監督
GIANTS PRIDEっていったいなんなんだよぉ
結果は0対0の引き分け
結果はどうあれホームランバッターには
思いっきり投手と戦わせて欲しいんだ
多くのファンはそれをきっと観たいと思っているはずだぞ
この試合たとえGIANTSが負けていても
村田と小笠原が三振していても
きっとファンは納得して帰ったんじゃないかな?
1990年 秋
バイトを辞め東京ドームにおさらばした私は
横浜球場での巨人軍藤田監督の胴上げを見とどけると
次の日 池袋の歯科医院へと面接を受けに向かった
履歴書の職歴欄には
「プール監視員」と
「東京ドーム警備係」を付け足しておいた
もうあの夏の終わりを過ごした神宮プールはなくなっている
Category: as free as a bird |
No Comments »
タグ: